猫轍守衛の偽業務日報

訳あって暇人やってる、その昔似非鉄道趣味者だったクズの毒吐きブログ。虎もライオンもデカい猫だけど、文句ある?

【ボツネタ】そして悲しき鉄道趣味

注:このエントリは一昨年の今日、関西学院大の上ヶ原キャンパスで開催されたあるシンポジウムに行ってきたことについてのエントリを書こうとして放置を繰り返し、昨年の万博鉄道祭りのエントリを書いた後に勢いに任せて書き上げようかとするも結局やる気をなくしてしまった、つまりはボツネタエントリorzもうこれ以上放置しても仕方がないのでどんな事を書いていたのかこのエントリで晒す。

前のエントリで万博鉄道まつりに行った時の事を書いたが、そのイベントの終了間際に自分が阪急電鉄ブースで何を買おうか微妙に悩んでいた時、横で自分よりもガチな鉄ヲタ氏がよりによってekiblo管理人の藤井氏に、京阪と阪急って今でも仲悪いのかと何度も何度もしつこく質問しているのを見て正直呆れてしまい失笑していた。彼の質問に対しては藤井氏は関西5私鉄は皆仲いいですよと返答していたが。
まあその鉄ヲタ氏、メンヘラの自分が言うのも正直アレなのだか多分知的障碍か発達障碍でも持っているかでしつこく同じ質問を繰り返していたのは致し方無いのかもな感じであったが、ただ鉄道趣味におけるあの会社とあの会社は色々あって仲悪くてな……とかいう伝聞を未だに鵜呑みにしている者は結構いるんじゃなかろうかと思っている。個人的にはそれらの伝聞の出所は恐らく鉄道趣味者向けの書籍や鉄道会社の社史の類だろうと見ているが、確かに各鉄道事業者、特に民営のそれは創業・開業期から暫くそういった時期があった事を意味する物事の記録はある。しかし時代が変わるにつれて現実も変わって行った訳で、特に国鉄民営化やバブル経済終焉、阪神淡路大震災や長期不況、そして関西圏の衰退が完全に決定付けられた事といった要因の集積は、私鉄のやり口が何時までも通用するものでは無いことを白日の元に晒した訳で、私鉄各社もまた変わろうとして四苦八苦の状態なのだ。その一つの流れが梅田コネクトだったり京阪におけるICOCA関連でのJR西と関係強化なのかなと思ってみたりするが。
関西圏の大手鉄道事業者同士による因縁に基づいた対立の時代など、とうの昔に終わりを告げているのだ。そんな伝説的な話に囚われ続けているのは、関西私鉄シンパの自称鉄道研究家及び一部の鉄ヲタだけだろう。私はそう思いたい。
かくいう私も、何故関西私鉄とJR西は仲が悪いのかみたいな質問をした事がある。いつの事かというと、昨年10月1日に関西学院大上ヶ原キャンパスで行われた 「関西私鉄文化を考える」というタイトルのシンポジウムの質疑応答の場でだが。

件のシンポジウムを主宰したのは関学の先端社会研究所というわりと真面目に社会学やっている組織なのだが、基調講演に川島令三、しかも講演タイトルが「便利になった反面遅くなっている関西私鉄」とあって、正直そんな内容で大丈夫かと思った。これに関しては本当はそう時間が経たない内に拙ダイアリで取り上げるつもりでいたが、所詮予定は未定、途中まで書くも放置して311当日の官邸議事録の如き状態になっていたので、万博鉄道まつりの一件に絡めて書き上げる事にする。
ただまあこのシンポジウム、ディスカッションのほうはパネリストとして参加する学者の方々のプロフィールから察する限りそこそこ有意義な話が聞けるのではないかと思うも、各先生方の講演タイトルを見た時点で変に期待するのは禁物かもしれないという気になっていたところで迎えた当日、家を出るのが少し遅くなってしまい間に合わないならないで別にいいやという気分とやはり聞かないと損するという気分との葛藤の中で、開始時間から5分遅れてシンポジウム会場に到着。会場となる教室にはもう入れないかも、と思っていたが受付の係の方に気前よく通して戴けたのでやや慌てぎみに席に着いた。
川島氏の話の内容は、阪神電鉄の特急の所要時間の変遷を中心とする話だった。第二次世界大戦後、1950年代前半頃は梅田潤オ三宮間ノンストップ特急を走らせていた阪神は色々な事情で特急運用を変えて行ったが、大きく変化があったのは阪神淡路大震災後、JR西との輸送客確保競争が本格的になってからで、講演のタイトルはその当時の阪神電鉄の中の人が「便利になるが遅くなります、すみません。」な主旨の事を言った話に基づくとの事だった。他にも阪急のあるお偉いさんが今津南線(西宮北口潤オ今津間)を阪神にやって阪神車を乗り入れさせたら便利になるかも知れないがという由の事を行っていただの、なんば線の現状は必ずしも便利とは言えない運用で、阪神電鉄の中の人の話としてその原因は車両と乗務員双方の不足であるという話もあった。この件については講演後の質疑応答の際に「列車が待避できる場所が無いからでは?」と訪ねたのだが、それも有るがやはり車両数と乗務員数の問題だという返答があった。
一つだけ気になったのは、川島氏が余談として福知山線脱線事故の原因は車両欠陥にあると言っていた事だ。氏はその理由として旧式の車両なら事故現場のカーブは曲がれた事を挙げ、事故後からその事(ボルスタレス台車原因説の事であろう)を指摘して来たが強い批判を受け、その事を言ってはいけないような空気が出来た事もありやがて黙りこんだとの話をされたが、京成の新形スカイライナーが車体の重量を重くした件やJR西の新型車両がモーターを全車両に分散した事が自説を証明しているのだろうというような事を言われていた。この件に関しては私自身はどうも釈然としない*1。とはいえ正直詳しくないのでまあこの件については保留、質疑応答の際にも質問しなかった。
その後休憩を挟んでパネルディスカッションとなる訳だが、基調講演の後の質疑応答がそこそこ盛り上がった事を受け、司会の金明秀教授から会場受付で来場者に配付された各種プリントの中に質問記入用の用紙があるので休憩時間中に記入・提出してもらい、後程の質疑応答の際にパネリストの方々に解答してもらう方法を取る由のアナウンスがあった。勿論書いて提出したが、ボールペンでかなり拙い字で書いてしまい今でも少し申し訳ない気分だ。しかし川島氏、会場に来ていた一部の鉄道趣味者からサインを求められるなど色々あっても相変わらず人気者だなあという印象wまあ他に高名な鉄道アナリストがいないという事もあるのだろうけど。
パネルディスカッションにおけるパネリストは、武庫川女子大准教授の三宅正弘氏、関西学院大教授の島村恭則氏、同じく難波功士氏、山口覚氏の4名。まずは三宅准教授、『ケーキ・ホテル・プロ野球から阪神間を読みとく』というタイトルで話をされた。私は知らなかったのだが三宅准教授はマスメディアへの露出が多く、数年前に武庫川女子大にある旧甲子園ホテル本館で彼が出演して撮影されたTV番組のものと思われる映像も見せてもらった。最近は研究していた内容からケーキ屋通のような扱いを受けている三宅准教授だが、彼がケーキ屋の存在に眼を向けるきっかけとなったのは阪急ブレーブスの消滅にあったと言う。かつての阪急球団がオリックスに譲渡された後、彼は「街の誇り」が無くなったような感を抱いていたそうだが、それに変わるものはないかと探していたところ、街のケーキ屋の存在があったという。
三宅准教授曰く、世界で一番ケーキ屋の集積率が高いのは実は日本であり、それは関西私鉄(特に阪急)沿線に集中しているとの事。因みに関西私鉄でも京阪沿線になると和菓子屋が多いとの事らしいが……。そのケーキ屋の集積率の高さに見られるように、関西には鉄道会社が作り上げた文化の他に、その鉄道会社によって作られた街の住人、沿線の「民」から出てきた文化の存在があるのだという。
また関西私鉄の沿線は、今でこそ「クラシック」なイメージが阪急だけのものになってしまっているが、実際には阪神電鉄が建造した旧甲子園ホテルのように各社ともにそういう文化を作ってきたという。またかつて私鉄各社が住宅地を造成した際その石垣に使われたり、建造物を建てる際に使われてきた石が沿線によっては異なる(阪急・阪神沿線では本御影石近鉄沿線では生駒石が使われた)という話もされた。
続いて島村教授の話、『「学園前」と「学研都市」―丘陵開発をめぐる〈民〉と〈官〉―』というタイトルのレジュメが前もって参加者全員に配布されていたので、それに従って話をされた。内容は近鉄による宅地開発の話で、近鉄奈良線学園前駅周辺の宅地開発はWW場K後になってから本腰になり、当初は戦前の郊外住宅地のようなスタイルを目指し、ニュータウン化もするも結果的にはやはり戦前に阪神間に形成されたような富裕者向けの住宅地となり、それと対をなすのがかつて軍事鉄道的な役割も果たしていた片町線学研都市線)沿線の、陸軍の祝園弾薬庫の機能を引き継いだ陸自の祝園弾薬支処のすぐ近くに1980年以降に開発された「学研都市」こと関西文化学術研究都市で、「学園前」が「民」によるものなら「学研都市」は「官」によるもので、ちなみにその中間地帯には大型ショッピングセンターやロードサイドショップといった所謂「ファスト風土」的な光景が広がっているという、まあそれだけと言うのも失礼極まりないがそれだけな話。
その次に難波教授の話。実は個人的に微妙に期待していたのが『路線間イメージ格差を考える―南海電鉄を中心に―』と題打ったこの人の話だった。で、なぜ南海かというと難波教授自身南海沿線の出身で未だに「阪急」はアウェーな感じで、南海沿線の関学生に阪急と南海のイメージの差を聞くとやはり阪急のほうが南海よりいいイメージがあるとの事。南海も沿線地域で自らの主導で造った駅前にロータリーを設けたイメージの良い街がが幾つかあったにも関わらず、なぜ阪急だけいいイメージを持つことが出来たのかと。教授曰くその一因として阪急以外の各鉄道沿線に戦前からの不良住宅が集中していたという事、そして湾岸部が工業地帯して環境が悪化した事によって、相対的に阪急沿線のイメージが上がってしまったとの事。まあ阪急沿線も場所によっては例外な所もあるのだが、もの足りなさを感じつつもまあ納得。因みにこれに関しては自分は阪急のイメージは小林一三への評価の影響があるのではと思っていたので、それを質問記入用の用紙に書いて提出した。
最後は山口教授による『関西私鉄系不動産事業の変化と空間の再構成―阪急不動産を中心に―』というタイトルで、東京一極集中時代における空間の再構成の中での関西私鉄の不動産部門の戦略についての話だった。関西私鉄の不動産事業で最初に東京進出を果たしたのは近鉄で1980年代末には営業が首都圏での認知度上げるのに苦労していたようで、阪急や京阪の東京進出はそれから10年以上後の2000年代に入ってから、ただ阪急も1980年代以降は自社沿線外で土地開発を始めているが、 2001年にグループが所有する土地価格の劣化を公表したり彩都の開発も厳しい状況下にあるという件に触れた上で、阪急の不動産部門が自社沿線開発から東京進出に転じた背景には1973年以降続く関西圏からの人口流出も一因だと指摘。そして東京進出して間もない時期の阪急不動産は地域の情報入手やノウハウ吸収の為に他企業との協同事業が多かったが、2011年以降は単独開発や歴史(阪急社史)の強調、そして東急を意識する*2もそれにこだわらず、という様相を見せているという。

ここまで書き上げたはいいが、この記事はその後も下書きのままで放置してしまった。何故かというとこういうと言い訳がましいにも程があるのだが、その後自分がこれまで以上に鉄道趣味に対する興味を無くしてしまったからの一言に尽きる。ちなみにこのシンポジウム、この後パネルディスカッションに対する質問に対する応答が行われ、自分が質問用紙に書いた質問も取り上げられ、先生方の反応はそういや阪急以外の私鉄ってこれという経営者の名前を聞かないですねぇみたいな反応があった覚えがある。その後さらに口頭での質疑応答の時間が設けられたので自分はそこでなぜ関西私鉄各社は時勢が変わったにも関わらずJR西との協調を積極的にやらないのかといった由の質問をしたような覚えがあるのだが、それについては関西私鉄各社の内部にJR西に対するアレルギーみたいなものがあり、特に阪急に関してはいつぞやの社長*3がJR西のことをボロクソに評していたとの話があったという由の答えが返ってきた覚えがある。
しかしまあ、自分以外の質疑応答をされていた人達は少なくとも自分よりよっぽどレベルが高かったというか、まあこのシンポジウム自体も近代以降の日本で構成されてきた空間の再編成だのファスト風土化だの均質化する世界がどうのとかいう社会学的に「意識の高い」ようでその実は「日本」が滅ぶことを恐れるバカウヨと同類な人達の会合でしかなく、こちらが得たものは鉄道趣味的小ネタと「これだから人文系は」な認識だけだったというか。

そして悲しき鉄道趣味。

*1:このエントリ書く際にググって知ったが、京成の現行スカイライナーこと2代目AE形は京成初のボルスタレス台車搭載車両で車体自体はアルミ合金を採用し軽量化を図ったとの事。それで「重量増加」という話が本当であればそれは160km/h運転を前提にした車両にするべくフルアクティブサスペンションとか採用したら結果的にそうなってしまっただけなのではと思うし、JR西にしても新型車両のボルスタレス台車採用を止めてはおらず、モーター分散の件は所謂321系以降に採用された「0.5Mシステム」の事を指していると思われるがあれも各車両の重量を増やす意図はあまりなくそうなったのも結果的にというだけの事ではないかと思うのだが……。

*2:「東の東急、西の阪急」と並び称された事もあったし、東急創始の五島慶太小林一三と無関係じゃなかった訳で。

*3:この件に関してはこの日同席された阪急阪神HD関係者に訊いてみたところ現社長の角和夫氏や前社長の大橋太郎氏のことではないらしい。