猫轍守衛の偽業務日報

訳あって暇人やってる、その昔似非鉄道趣味者だったクズの毒吐きブログ。虎もライオンもデカい猫だけど、文句ある?

中埜肇が24年前の今日に生きて帰ってたって、阪神は買収されてたさw多分〈前編〉

歴史のifがその通りだったとしても、その後は果たしてそうなったかな?w
《もし中埜肇(阪神タイガース球団社長)が健在だったら - Chakuwiki http://wiki.chakuriki.net/index.php/%E3%82%82%E3%81%97%E4%B8%AD%E5%9F%9C%E8%82%87%28%E9%98%AA%E7%A5%9E%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%B9%E7%90%83%E5%9B%A3%E7%A4%BE%E9%95%B7%29%E3%81%8C%E5%81%A5%E5%9C%A8%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%82%89
 フロント、選手、ファンからも評判が良く阪神の名物社長になっていた。
 ・久万氏の後にオーナーに就任していたかも。
 ・その場合は阪神本社に復帰して社長→会長になってるだろうから、阪神本社のアキレス腱だった含み資産の問題に手を着けていただろう。従って村上ファンド阪神本社を標的にすることはなかったはず。》
おいおい、「阪神本社に復帰して社長→会長になってるだろうから」って久万俊二郎と中埜肇の年齢差知ってて書いたか?w確かこの二人そんなに歳離れてないぞw
久万俊二郎 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E4%B8%87%E4%BF%8A%E4%BA%8C%E9%83%8E
 久万 俊二郎(くま しゅんじろう、1921年1月6日 - )は、実業家。阪神電気鉄道元社長・会長。阪神タイガース元オーナー。》
《中埜肇 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9F%9C%E8%82%87
 中埜 肇(なかの はじむ、1922年3月31日 - 1985年8月12日)は昭和中期から後期(1940年代後半〜1980年代前半)の日本の技術者、実業家。プロ野球阪神タイガース元社長、元阪神電気鉄道株式会社専務取締役鉄道事業本部長。
 1985年8月12日、日本航空123便墜落事故で死去。享年64(満63歳没)。》
ちなみに久万が手塚昌利に社長職譲ったのは1992年、恐らく2期は勤めているわな。しかも手塚は久万よりちょうど10歳下なんだがw
《手塚昌利 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E5%A1%9A%E6%98%8C%E5%88%A9
 手塚 昌利(てづか まさとし、1931年3月8日 - )は、実業家。阪神電気鉄道相談役。旭日重光章。阪神電鉄の元会長・社長で、阪神タイガースの元オーナーでもあった。
 徳島県鳴門市出身。旧制市岡中学校、第四高等学校 (旧制)を経て、京都大学法学部卒業後、1953年に阪神電鉄へ入社。運輸部長、不動産事業本部長、常務取締役、専務取締役などを歴任、1992年社長に就任し、2004年から2006年まで会長を務めた。》
含み資産云々の件は、久万体制下の所謂「球団の『渋チン経営』」の傍らで阪神電鉄が行っていた西梅田再開発――つまりハービス完成後の施設運営の成果とか2000年代始めに行われたグループ事業の整理統合とか、前世紀末の日本における企業会計方法の変化等の外的要因とかそれらがいろいろ絡み合った果ての当然の帰結だっただろうから、仮に中埜が生きていても彼一人でどうにかできる様な話じゃなかっただろうと思うのだが……w
とりあえず久万から手塚に電鉄社長の職が移った後、震災でできたガラクタ片付けながら阪神電鉄は何をしていたのかに関して彼ら自身がどう総括していたのか、阪神電鉄の公式社史からそれと思しき箇所を一部省略でダダ写しするぞゴラァ!!w
《手塚昌利が社長に就任した1992(平成4)年には、すでにバブル経済が崩壊して長期不況の局面を迎えており、さらにその3年後の95年には、阪神・淡路大震災が発生して阪神電鉄に総額約481億円に及ぶ被害をもたらした。このように逆風が吹き荒れる経営環境のなかで、手塚社長は西梅田開発事業と西大阪延伸線事業(*1)という2大プロジェクトに取り組んだのであるが、この2大プロジェクトを遂行するためには、財務体質の強化と阪神グループの収益力回復が課題となった。
 すなわち、阪神電鉄の有利子負債残高は、1991年末の1336億円から、98年度末には2661億円へと約2倍に増加し、また同年度には社債の格付けも引き下げられた。このため、99年度以降は有利子負債残高の圧縮が進められ、2大プロジェクトの所要資金についても、可能な限り自己資金でまかなう方針が打ち出された。具体的には、販売用土地をはじめ遊休土地などを積極的に売却し、キャッシュフローを生み出すことで資産効率の向上を図るとともに、投資対象選別の厳格化、費用の削減、グループ内余剰資金の有効活用などに努めた。(*2)(中略)
 グループ収益力の回復という面では、関連事業の再構築・グループ会社の再編が行われた。会計ビックバンの第一弾として、1997年6月の「連結財務諸表制度の見直しに関する意見書」の公表後、「連結財務諸表原則」が改定され、2000年3月期から連結情報を重視する大幅な開示情報の充実が図られることになった。これは国際会計基準に沿った変更であり、99年には日本の企業会計は連結決算重視、キャッシュフロー重視の方向に転換した。このことは、単に会計上の問題というだけではなく、会社経営全般に大きな影響を与える問題であった。(中略)
 連結ベースでの当期純利益の連単倍率は1倍以上が望ましいが、1999年度における阪神電鉄阪神グループの場合は0.22倍にすぎなかった。したがって、個々の会社、個々の事業について赤字をなくし、収益の向上を図ることは言うまでもないが、さらに構造改革をはじめとした経営の効率化を進め、阪神グループとしての業績の向上を実現しなければならなかった。(中略)
 こうした方針のもと、2000年7月に企画調査室と関連事業室が統合され、新たに社長室(*3)が新設された。企画調査室は阪神電鉄単体に対する、また関連事業室はグループ会社にたいするゼネラルスタッフ部門であったが、本格的なグループ連結経営の時代を迎え、両者を統一して社長直轄の組織としたのである。(中略)
 (『阪神電気鉄道百年史』第8章 2大プロジェクトの推進と経営基盤の拡大 第2節 経営組織と経営方針 2.経営基盤の強化と新たな経営戦略 より)》
とあって、まあこの後にグループ会社の再編の事について書かれている訳だけど、長くなりそうなので続きは次のエントリで。
(*1)言うまでもなくハービスOSAKA・ハービスエント建設と阪神なんば線延伸に伴う工事・開業準備の事。他にも復旧工事を兼ねた甲子園駅以西の阪神本線一部高架化・春日野道駅改修とか旧福島駅跡地(現ラグザ大阪=ホテル阪神のある所な。)の再開発とか六甲ケーブル復旧工事とかいろいろあったわけで当時の電鉄の本音は「球団にやるカネ? んなもんねーよ親会社の状況見ろや……。」というものだったのかもしれない。まあ珍ヲタ(特に阪神外部の奴)には言い逃れにしか聞こえなかったのかもしれなかっただろうけどw
(*2)勿論それに伴う従業員リストラ、昇給据え置き、グループ企業従業員の非正規化が行われたのは想像に難くない。百貨店なんか自分が阪神子会社に入った2000年頃は売場にそんなに契約社員は立っていなかった様に記憶しているが、個人的にはその後やたら売場に「契約社員増えたな……。」という印象があった。まあ、売場ブース持ってる業者の都合もあっただろうからいずれにせよ契約社員は増えていただろうけど。(阪急阪神百貨店発足前の阪神百貨店は正社員の名札は漢字表記、契約社員の名札はひらがな表記という事を当時の上司や同僚から聞いた事がある。この慣習は阪急阪神百貨店発足後に阪神百貨店に行って売場を見た限りではどうやら改められたようだが、実際どうかは今は外部の人間である自分には不明。)当時の自分の回りにも会社の安月給ぶりを口にする人が多かったし。それも正社員でなwまあ殆どの鉄道会社のグループ企業従業員の収入ってそんなもんですよorz
(*3)因みに当時の社長室の役割は、
 ・電鉄本体及びグループの企業戦略&経営方針の策定
 ・連結決算体制の確立
 ・関係会社との連携
 ・新規事業の推進
 ・西大阪線延伸&西梅田再開発担当部署のバックアップ
 ・社内及びグループ企業の組織再編&開業100周年事業実施に向けての社長の業務のバックアップ
といったもの。乱暴な言い方をするなら阪神電鉄始めとする阪神グループ各社の経営方針は電鉄首脳陣が「これでいいや。」と思った以上は「明らかにダメだろそれw」と外部からツッコミいれられても「でもそんなの関係ねー(死語)」という様な体制にしちゃった訳。(という理解の仕方でいいか?w)
追記:以前のエントリで『阪神電鉄百年史』と書いたけど、正しくは『阪神電気鉄道百年史』でした。当エントリから訂正しておきます。